KOBAのジャズ青春記 第7回

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当時高円寺には「アズ・スーン・アズ」というライブ・スポットが南口にあった。
夜3回のステージがあり、12時までやっていた。3回通 しで見ても確か1000円以下でワンドリンクついていた。東京に出てきてまだ一週間、大学のオリエンテーリングやなれない電車通学で少し疲れ気味だったのと、まだ純情で仕送りの金を出来るだけ節約していた。ライブ決行は4月末、5月分の仕送りが来てからにすることにした。

取りあえずスイング・ジャーナルの地図を片手にまずその場所を探した。駅からすぐそばで僕の北口の下宿から10分程度だった。おもてにスケジュール表がありこのスケジュールをメモった。スイング・ジャーナルでよく見る名前を見つけるともう興奮だった。とにかくどのライブを見に行くかサンジェルマンで作戦を練ることにした。

ライブ決行の日、まずは北口のハンバーグ屋で腹ごしらえをしてアズ・スーン・アズへ向かった。入り口で少しだけ躊躇して階段を上がっていった。一呼吸してからドアを開け、ドキドキしながら中へ。コーヒーを注文して一番後ろの席に座った。客はまばらでまだ席はガラガラだった。3年前兄に連れられて行ったピットインは満員で立ち見までいたのに、ちょっとがっかりした。

その日のギグは水橋孝のグループだったと思う。アフロヘヤーの水橋が入ってきたときはビックリしてしまった。あんなの松本にはいなかったから。水橋のガールフレンドとおぼしき女性が一番前に座ってビールを注文していた。ひどく大人に見えた。

演奏が始まり、僕は一番後ろの席で小さくなりながらステージを凝視していた。おかわりのコーヒーを注文するお金は無かったからコーヒーを節約しながら聴いていた。シンバルの炸裂音やテナーの咆哮に僕は酔っていた。一部の演奏が終わってもまだ耳の中に音ががーんと残っていた。結局最後のステージまでコーヒー1杯で粘った。

最終ステージが終わって三々五々お客が帰り始めた、僕はしばらく放心状態だったとおもう。余韻を楽しむように最後の一口を飲み干してアズ・スーン・アズのドアを押した。

寝床に入ってもまだライブの時の音が耳のなかで鳴り響いていた。その晩はとうとう朝まで眠れなかった。その時から国分寺へ引っ越すまで毎月月末はアズ・スーン・アズでのコーヒー1杯のライブで過ごすこととなった。


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4件のフィードバック

  1. 定年退職して5年めのイチ高校教師。 より:

    アズ・スーン・アズ(高円寺)には、40年以上前の昭和51年か、忘れられない「思い出」があります。私の記憶に多少の間違いがあるかもしれませんが当時、ライブの三部に若き渡辺香津美氏の出演がありました。客は、大学浪人中の私一人、中休みにトイレで「小用」をたしていると、渡辺氏が入ってこられ、並んで「立ち○○○」をすることに・・・すると氏が「眠かったら帰ってもいいよ」と私に言うのです。私が眠そうな顔をしていたのか、それとも、たった一人の聴衆で義務感で居残っているとでも思われたのかもしれません。「あの・・・聴いている人がいなくても演奏はされるんですか」と私・・・「そう。この日の演奏予定で練習してきてるから」ガーン!私は大学入試にも正面から取り組まない、自分の「甘さ」とともに、人生を生き抜く「基本姿勢」を強い衝撃とともに氏から教えられました。日付が変わっても熱い演奏が続きました。自宅方面の三鷹行の始発電車を待つ間に、ホームから見た、涙にかすむ新宿方面の街は、ちょうど鈴木勲氏のBLUE CITYのジャケットそのものでした。たった一夜の輝くような青春の思い出です。

  2. koba より:

    定年退職して5年めのイチ高校教師。様

    コメントありがとうございました。
    私が高円寺にいたのは昭和49年から50年でした。丁度同じ頃ですね。
    素晴らしい体験をなさったのですね。
    私もあの頃のことは生涯忘れません。
    今後ともよろしくお願いいたします。
    KOBA

  3. sow0309 より:

    同じ頃、中央ゼミナールに通ってました。ゼミの分室がASSOONASの上、4階だったかな、夜学部だったので
    ライブやっていたんだけど、1.2回位しか見れなかったです。板橋文夫さんのライブは覚えてますね。
    神奈川県から通ってたので、遅くまで居れなくて、寂しかったです
    前の路を森本レオさんが自転車でよく通ってました。
    懐かしいなぁ

    • KOBA より:

      コメントありがとうございます😊

      僕が通っていた南口の喫茶店、森本レオさん主演の若者たちの舞台になりました。

      懐かしいですね。

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